「10年前の指針値で「安全宣言」」

《連載》見えない汚染 ダイオキシン(2)



〜朝日新聞1998/06/19朝刊〜

 埼玉県の所沢市長にあてて、測定・分析業者が出した内部報告書がある。
1994年、所沢市にある3つの焼却炉のダイオキシン濃度を測った。1万2000ナノグラム(ナノは10億分の1)、1万ナノ、5700ナノ。その後、厚生省が緊急対策が必要として決めた80ナノの150倍から71倍もあった。
 報告書は、その濃度で排出され続けたと仮定した場合の住民の安全性を評価した。
 例えば、1万2000ナノの場合、一般住民の大気からの吸収量は体重1キロ/1日当たりで15ピコグラム(ピコは1兆分の1)になる。
 報告書は言う。

「(厚生省の)専門家会議が評価指針としている100ピコを下回る」

 事実上の安全宣言だった。
 報告書は、摂取量の大半を占める食物からの量に触れていないが、100ピコまでとなると、この測定値の何倍にもなる超高濃度汚染でも許されることになる。
 業者が根拠とした「評価指針値」は、厚生省がこの10年前の1984年に作ったものだ。
 しかし、このころ、欧米の主要先進国で、一生摂取しても影響のない1日耐容摂取量を100ピコなどとしている国はなかった。
 1980年代後半から欧米各国はダイオキシン対策に乗り出し、スウェーデンとデンマークは0〜5ピコ、ドイツが10ピコに決めた。1990年に世界保健機関(WHO)が10ピコと決めると、英国、オランダ、カナダなどが次々とそれにならった。

 だが、日本政府は動かなかった。

 日本でダイオキシン汚染が顕在化したのは、1983年、愛媛大学の研究グループがごみ焼却施設から出るダイオキシンを確認したのがきっかけだった。
 当時の厚生省の動きは鈍くはなかった。
 ごみ問題を担当する環境整備課の担当者は、対策を立てるにも、どの程度の摂取量なら健康に影響がないのかを決めてもらわなければ、と考えた。だが、化学物質担当の課は「意図的に作ったのではない物質はうちの範囲外」と言った。環境庁の環境保健部が断ってきたのも、同じ理由だ。
 結局、自分のところに戻って、厚生省の環境整備課が担当することになる。対策を立てる課が、その基準も決めるという妙な結果となった。
 それでも、学者らを集めて検討会をつくり、何とか指針値を出した。
 しかし、これの指針値が10年後に引用されるようになるとは、だれも思っていなかった。委員の1人は言う。
 「ダイオキシンの分析方法も未熟で、データもない中でまとめられたものだ。一刻も早くデータを蓄積し、数値を見直すということになっていた」
 5カ年計画でデータを収集し、1990年にごみ焼却施設のガイドラインを作るため検討会がつくられた。だが、専門の委員が排出濃度の目標値を入れようとすると、「ごみ行政に影響が大きい」と自治体側の委員がくぎを刺した。結局、目標値はごく一部をのぞいて見送られた。
 1984年の指針値も生き残った。
 これが見直されたのは、やっと1996年になってからである。
 先月末、ジュネーブでWHOの専門家会合が開かれ、1日耐容摂取量が見直された。
 配られた資料を見て、厚生省と環境庁の担当者は驚いた。日本の耐容摂取量は100ピコとあった。2年前の見直しで、厚生省は10ピコ、環境庁は5ピコ(健康リスク評価指針値)と設定していた。
 「日本がいかに世界に向けて発信してこなかったかの証拠でしょう。それに政府内で2つの基準があるなどと説明できたものではなかった」と、ある研究者は言う。
 会合では新しい摂取量が1〜4ピコに決まった。
 両省庁はそれをもとに再度見直しを始めた。また、世界を追っかけることになる。

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