多摩川のコイ、精巣異常
環境ホルモンの影響か
 2匹のコイは、体長約60cmでほぼ同じなのに、精巣の大きさはまったく違っていた。東京都府中市の多摩川で26日、「環境ホルモン」問題に取り組んでいる横浜市立大の井口泰泉教授(46)=内分泌学=らのグループが、地元の元漁師の協力を得てコイを投網で捕獲、その場で生態調査をした。昨年から始まった調査は今回で5回目。この日、10匹のうち3匹のコイの精巣に異常がみられた。井口教授は「これじゃ生殖は無理でしょうね」とつぶやく。化学物質がはんらんするなかで、生態系を脅かす環境ホルモン問題への取り組みは、日本ではまだ始まったばかりだ。
 いずれも26日、東京都府中市で井口教授と帝京大の中村将・助教授(51)=魚類生殖生理学=らが見守るなか、学生が投網であがったコイの解剖を始めた。正常な精巣は白く丸々と太っているのに、もう一方はボールペンほどの太さしかなく、色も茶色がかっている。「この精巣は異常に小さいな」。学生から声が上がった。
 調査は昨年7月から始まった。この日の調査を含めて、これまで捕獲したオス38匹のうち、11匹 の精巣に同じような異常が見られた。正常な精巣は150グラム前後はあるのに、6グラムしかない精 巣もあった。
 コイをとった周辺の多摩川の水質分析では、洗剤などに使われる界面活性剤の分解物の「ノニルフェノール」が検出された。この物質は環境ホルモンの一つとされており、井口教授は「精子異常の原因になっている可能性がある」と見る。
 1994年1月、米国・ワシントンで開かれた環境ホルモンに関する研究発表会。井口教授の目は、フロリダ大のルイス・ジレット教授が示した1枚の写真にくぎ付けになった。
 化学工場の事故で環境ホルモンの一つといわれるDDT(農薬の一種)関連物質に汚染されたフロリダ州のアポプカ湖にすむメスのワニの卵子が写っていた。一つの卵胞に一つの卵子があるのが普通なのに、卵子がいくつもある多卵性卵胞という現象が見られた。一方、オスのワニには、ペニスが生殖不能なほどに小さいなど、80%に性器異常が出ていた。
 「研究室で見たハツカネズミの卵子と同じじゃないか」。井口教授は20年以上前から、女性ホルモンが動物にどんな作用を及ぼすかについて研究してきた。
 メスのハツカネズミに女性ホルモンを投与すると、ちつがんや卵巣異常が増えるなどの影響とともに、受精してもうまく育たない多卵性卵胞が見られた。ジレット教授の写真は、化学物質であるDDTが、ワニの体内で女性ホルモンと同じような働きをしていることを示していた。
 井口教授は「ジグソーパズルの最後がはまったようだった」と振り返る。は虫類のワニとほ乳類のハツカネズミに同じ現象が見られたということは、人間にも同じような危険が迫っている可能性を意味していた。
 環境ホルモン汚染が進めば、子供のいないSF小説のような社会が出現するかもしれない。危機感を抱いた欧米の数カ国は、90年代初頭から政府が関与して調査を始めたが、日本の取り組みは5年以上遅れている。井口教授らがメンバーとなった環境庁の研究班が発足したのは、昨年の3月末のことだ。

環境ホルモン: 体内に取り込むと多くは女性ホルモンと同じような働きをする化学物質。
ラットや魚類などを使った動物実験では、オスがメス化するなど性器や性行動に影響を与えることが確認されており、「内分泌かく乱化学物質」や「ホルモン阻害化学物質」とも呼ばれる。ダイオキシンやポリ塩化ビフェニール(PCB)のほか、プラスチックの原材料のビスフェノールA、船底塗料の有機スズなど約70種がリストアップされている。人間についても精子の減少の原因との報告がある。
 地球温暖化などと同様に世界的な研究が必要との認識が高まっており、経済協力開発機構(0ECD)は3月、パリで毒性評価と試験方法についての専門家会合を予定している。

〜朝日新聞1998/02/27朝刊〜


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